LOVE! HEROES!

特撮番組全般、そして高岩成二さんと伊藤慎さんを応援します。

日記なので結論はありません。

アニメについてはあまり詳しくないわたしでも名前だけは聞いたことがある、おそらくはアニメファンの中で名作とされているであろうあるアニメの実写化が発表されたことにより、たちまち

1)原作品ファンによる阿鼻叫喚
  ・過去の実写化作品への批判
  ・発表された配役などの情報から窺われる全体像への危惧
2)それによる過激な実写化反対論の展開
  ・そもそも実写化で成功したものは存在しない 等
3)それらに触発された外野による大喜利
  ・実写化されて成功したと思われるものの列挙
  ・成功したかどうかわからないが好きな実写ものの列挙 等々
4)実写化アレルギーへの批判
  ・せめて観てから批判しろ 等

諸論噴出でここ数日、ネット界隈が騒がしくなりました。
これは著名な作品の実写化が発表されるたびに規模の大小はあれ起こっていることで、わたしのスタンスはだいたいネットでは上記のうちの3)。
大まじめに論じるより茶々を入れるのが好きなほうです。作品の評価、批評自体、わたしの知識や能力では手には余りますし。
鵺の鳴く夜は怖ろしい

ただ、
「自分の好きな原作品の実写化をどう思うか?」については、1)、2)に近いかもしれません。

かつて角川書店は、自社で出版する小説の映画化に進出した際、相乗効果を狙って莫大な広告費をかけ、

「読んでから見るか、見てから読むか」

というキャンペーンを展開しました。70年代後半から80年代半ばにかけてのことです。対象となる小説も名作なら作られる映画も大作揃い。ヒットの連続により、「角川映画」は邦画の一大ブランドとなりました。また、角川映画の成功にちなみ、テレビでも小説やマンガのドラマ化が流行っていましたが、当時は概ね良作が多かったと思います。

そんな時代を通過した経験からすると、やっぱりわたしは
「観てから読む」派だなあと思います。角川映画は、とくに初期のそれは、決して原作品のネームバリューにだけのっかった安易な実写化ではなく、どれも作品への愛や思い入れにあふれ、また潤沢な予算で丁寧につくられた映画ばかりで、何の先入観もなく観ていれば
「これは名作だ!」と多くの人が喜ぶであろうものでした。が、それでも、先に小説のほうを読んでしまうと、がっかりすることが多かったのです。

現実という制約の有無と受け手のイマジネーション

小説の読み手には、言葉と言葉の間の余白から様々な情報を酌み取り、その背景を想像するという能動性が求められます。
このために読み手のイマジネーションは往々にして現実の制約を無視して大きく膨らみ、美女と書いてあれば自分が思う最高の美女を思い描きますし、名将軍が雷鳴の如き声で下知をくだしたとあれば自分のなかで再現されたその声に雑兵のように打ち震えますし、戦闘シーンでは人間離れした神技を頭に再現します。すばらしい絶景が描写されればやはり、今まで実際には見たこともないような風景を脳内に展開します。
これに対して実写化というのは、そのようにして創りだされた夢の世界を、俳優の肉体という現実に仮託することになるわけで、仮に美女役にふさわしい当代一流の美人女優が配されていても、それが自分のイメージと異なれば
「これが(美人のはずの)○○?」という違和感につながっていくだろうと思います。

逆に観てから読めば、頭のなかに残っている映画で観た世界観、いくつかの光景、実在の俳優の姿形や声音などを再現しながら小説を読み進むわけで、違和感ということはありません。
「あ、映画でカットされていたけどあの発言の背景にはこういう事情があったのか」など、より詳しい情報を得て理解を深める歓びがあるだけです。

実写化がだめなのではなく、原作品の読み手や視聴者は、どうしても自分自身が作り上げた“世界”と、実写化された世界を引き比べてしまうものなのです。そこには必ず違和感がある。
この構図は原作品が小説である場合に限りません。
小説>マンガ>アニメ>CG&実写の順に、受け手のイマジネーションのための余白はどうしても大きくなり、その分どうしても二次作品への違和感が起こる。もとが実写作品であっても、リメイク、リブートが行われれば、同じ騒動が起こります。
原作品のファンは往々にして、原作に触発され自分が自分で思い描いた“世界”のファンでもあり、そこにこだわる立場からすると、いかに世間的に成功した(もしくはするであろう)名作がこの世に存在しても、
「実写化映画はすべて×」という思い込みが消えることはないでしょう。そういう人にとっては、観るまでもなくだめなものはだめ、だからです。

個々の作品としてみれば評価は変る

原作は原作、映画は映画というメディアミックス派や、実写化映画をすべて一つとして論じることはできない、だめなものもあれば良作もある、という立場の映画ファンにはこの態度は受け入れがたいものかもしれません。
また原作ファンでも、自分のイマジネーションへのこだわりがそうない場合は、
「なるほど、ここをこう解釈したのか!」
「このシーンをこう表現するとは!」
 とその違和感にむしろそそられてしまったり、
「原作の流れの悪さが実写化で整理されて良くなった」
「原作とは違う視点、印象が付加されて作品世界が深まった」
 となったりすることもあり、また、違和感どころじゃなく、自分のちっぽけなイマジネーションよりも遥かに優れた映像を見せられることも起こり得るわけで、映画個々の評価は実際には観るまで定まらないものだと、わたしも思います。

なのに、実写化と報じられただけでネット内に罵声が飛び交う。これに対して聞き苦しい、せめて観てから文句を言えと言いたくなるスタンスも、わかるのです。

再現度で作品を論じる無意味さ

わたしは1)、2)に近い立場だと書きました。実写化されたものを見て失望することが多く、実写化と聞くとひとまずは大丈夫か? と不安になってしまうタイプです。よほどの材料がないと、原作品を先に楽しんだものの実写化を見てみようかとは思いません。
これには推理もの、ミステリが好きだという個人的な事情もあって、活劇シーンの多い探偵ものはともかく、緻密な推理ものの映像化というのは絶望的に難しいためです(実写化すると情報の取捨選択が必至で、さりげないヒントを含む画面作りなど至難の業です)。
オリジナルのミステリ映画はこの限りではないのですが、とくに小説の映画化となると、推理より探偵の人柄や作家のおどろおどろしい世界観を描く方に力を入れたテレビの「金田一耕助シリーズ」のように、映像ならではの工夫が必要になります。

が、「テルマエ・ロマエ」のように、お風呂に入って世界を行き来するだけの話をどう映画化するんだろう? とか、日本人俳優がローマ人役なんてそんなバカな! と思い切り違和感を逆手にとられたらのこのこ出かけていきます。原作者がそれを好ましいと思っているかどうかはあまり気になりません。
それに、なかには「ささらさや」のように、原作の作風よりこっちが好き、という映画もゼロではないわけです。
論理的に、再現度勝負で原作に勝てる二次作品はありえませんので、実写化する製作側は、むしろ原作にない新要素の盛り込みこそ腕の見せどころと思っているでしょう。わたしはそれでいいと思っています。その原作を作品たらしめている<エッセンス>さえ保たれていれば。

<エッセンス>を特撮ヒーローにたとえれば、たとえばその原作品は絶対正義で燃えさせる作品なのか、それとも人によって正義とすることは異なるという現実を示す作品か、勧善懲悪を追求する爽快な作品か、ヒーローの孤独と悲哀を重く描いた作品か。わたしはどれも好きなわけですが、しかしその点が原作品と一致していなければ、その実写化作品は別物であるといえるでしょう。たとえ外形的には原作に忠実に作られているとしても。そして、
「ぜんぜん別物にしてしまうのなら、はじめからオリジナルでやれ」とあざとさを感じてしまうでしょう。

というわけで

実写化と聞いて不安に思う気持ちは人一倍つよいわたしですが、それを楽しみにしている人がいることもわかるのです。
実写化された良作が少なからずあることも知っています。自分自身実写化作品を楽しんだ経験もあります。
ですから、人に聞こえる場所で、大声で、
「実写化なんて!」と罵倒することは、やっぱり大人としてとるべき態度じゃないと今回の騒動については思っています(上品ではないですが、同じ好みの人とクローズドな場所でこぼしあうのはありかな)。

これは逆に対しても言えることで、たとえば4)のスタンスの人が、1)、2)のスタンスの人に
「実写化に良作はある」といくら言っても、それが自分のイマジネーション、自分の脳内に描かれた作品世界を至高とする相手なら、その説得は無駄というものです。繰り返しますが無理なものは無理なのです。そういう作品の楽しみ方も確かにあるのです。見もしないで否定するな、こっちは楽しみにしているんだという反応はごもっともですが、実写化アレルギー呼ばわりまでいくと、やはりきつい物言いだなと感じます(なんでもラベリング、カテゴライズする言い方はきつく聞こえます)。

エンターテイメントの分野では適当に棲み分けてみんなそれぞれのやり方で楽しめばいいんだと思うんですけど、ていうか一般的にも
「あれはだめだ」という批判より
「自分はあれは好きではない」という感想のほうが聞きやすいと思うんですけど。
ネットの功罪というのか、スタンス関係なく声高な人が多いのは残念です。あと、批評、批判はともかく、なぜか罵倒や人格否定を議論と混同している人も。あと、好きなものへの愛を語るのに、そうでないものへの否定を以てする人とか。

わたしはなんでも楽しめる人が好きなので、できるだけ自分でもそうありたいのですが、でなければせめて、自分だけ勝手に、誰の邪魔もせず、自分の好きな楽しみ方をしたいなと思っています。
これはあくまでヒキコモリなわたしの好みであって、だからなんだということではないのですけど。
追記。ぜんぜん関係ないですが、3)の大喜利でときどきあがっていた「仮面ライダー」は、実写化ではなくいうなればメディアミックスですのでライダーファンとして訂正を入れておきます。
6/21追記。ちょっとミスがあり、パーマリンクを変更しました。
8/8追記。
twで回ってきた

梅枝庵「実写映画化やスピンオフなどの派生作品についての私見」

というブログ記事を読みまして目からうろこ。

あのですね、まず前提として、世の中には「文章や絵には全く感情移入出来ない」という人たちがかなりの割合で存在するんですよ。っていうか、むしろそっちが多数派かもしれないんですよ。

(中略)

わざわざ映画館に出向く層はまだ、多少ぶっ飛んだ設定でも受け容れられる人が多いですが、ああいう隔離状況で二時間集中して物語に没頭するということそれ自体が実は難度が高い――「梅枝庵」

えーっとびっくりです。

面白い作品が生まれてくるような豊かな文化的土壌をつくっていくには、資金が必要であるというのは納得です。
出版不況にある現代日本においては、そのためにごく一部の売れる“傑作”をメディアミックスして何度でも形を変えて出し、機会あるごとにお金に変えて、売れないその他大多数の作品を養うという手段がとられる。ここも納得です。
それによって既存の固定ファン、以外の層を開拓していくというのも、マーケティング上正しく、やはり納得のいく話です。
そしてその主対象となるのが、
「文章や絵には感情移入できない」
「映画館に行くのも実は億劫」
という人たちであると。なるほど……世間は広いです。
そうである以上実写化は必要なことなのでしょうし、俳優の肉体というリアルに物語を仮託することも必要なことなのでしょう。どうしても原作とは違うものになってしまうのは仕方のないことなのでしょう。
それならそれで、せめて原作ファンでも面白いと思える作品をつくってください、原作のエッセンスだけは大切にしてください、と祈るばかりです。

わたしは太宰治の外国の古典の換骨奪胎ものや、様々なパスティーシュ、パロディが好きなせいか、実は“違う”ということ自体は気にならない方です。できあがった映画やドラマが、それなりに意欲的・魅力的なものであれば、
「こうきたか!」と楽しめるのではないかと思います。ただ、そういう方向での“売れる努力”ではなく、文章や絵に感情移入できない人たちを呼ぶためにキャスティングや宣伝だけに力を入れる、シナリオはどうでもいい、というものだと、仕方ないと思いつつも置き去りにされた感が果てしなく大きくて、ほんとうはアイディア次第でもっともっと面白くできた、それだけの底力のある原作なのにと、それで楽しくないのだろうなと思います。
ああそうだ、全然関係ないけど、特撮ヒーローものを“女性向けにするため恋愛要素を盛り込む”というのが嫌なのも、(女性であるわたしは)そんなのちっとも求めてないのに、という置き去り感が大きいのかもしれません。思い切って恋に悩んだり三角関係でぐじゃぐじゃになるヒーローを描くというならまだしも、ほんの彩り程度にとってつけたような古臭い恋愛感をトッピングしたものなんかにはあまり意味を感じないし、その分燃える台詞やかっこいいアクション、すごいメカがカットされたのだったらと思うと……。
大好きなヒーローをあっちへ持って行かれちゃった、みたいな気に、なってしまうのかもしれません。
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2015.06.20 14:51 | diary 優雅に生きたいけどだめ | トラックバック(-) | コメント(-) |
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