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LOVE! HEROES!

特撮番組全般、そして高岩成二さんと伊藤慎さんを応援します。

地方では上映館が限られていたため当時は観られず、今頃の感想文。
おおついに映画化か! と逸っていた時に観るべきだったかなあ……スプラッタは大好きですし、シーズン1、シーズン2を経てこの展開もありかとは思ったし、悠の存在感も増し、仁さんは目が見えるようになってていいじゃないか、とは思いながらも、何だかできのいい同人作品を観ているような気になってしまいました。
それだけシーズン1の完成度が高かったということなのでしょうけどね。

リスアマゾン可愛すぎ。
あらすじ

ノザマペストンサービス、通称駆除班の解散に伴い、橘の指揮下、新たに組織された対アマゾン制圧組織、4C。かれらの活動は凄まじく、また甘さの残る志藤らに比べ非情でもあり、シーズン2以降も徹底的なアマゾン狩りを展開していた模様。
冒頭、悠を追い詰めつつ
「おれたちが狩り残したのはあと2匹だけ」と宣言するまでに。
2匹、即ちアマゾン細胞と人間の遺伝子のハイブリッド・水澤悠と、アマゾン細胞生みの親でもある鷹山仁。

傷を負い絶体絶命の悠でしたが、何とか追手を逃れ、山奥のある施設の人々の手によって匿われます。
自給自足のつましい生活、日々捧げられる敬虔な祈り、あたかも宗教団体が運営する慈善施設のような。
一方、悠の養い親であり、同時に遺伝子上の母である水澤は、4Cから悠を護るべく、再び駆除班を召集し、悠の元へ差し向けるのですが――。

よかった探し

上映からかなり経っていますのでネタバレありの感想でいきますと、「喰うか喰われるか」をテーマとする上で飼育、ないし畜産は避けては通れない内容ですので、続編かつ完結編として正統派のストーリーと言えるでしょう。
しかもドラマでは敢えて回避していたらしき仁と悠の決着をきっちりつけており、役者さんの鬼気迫る演技も見もの。
表情が見えるかのような変身後のアクションも。

「アマゾンは自分も含めすべて殺す」と宣言する鷹山仁。悲劇を生み出した責任をとるべく、人ならざる者として道を外れ、ほとんど狂気の域に達したかのような戦いぶり。
「守りたい者を守る」水澤悠。人の手で作られた己という存在に疑いを持ち、人らしく生きようとする思いが捨てられず、といって人に害をなさないアマゾンまでも殺すという人間の勝手も許せず。
この両者の戦いは、世界中あちこちの神話に残る、
「1日に○人を殺す」と宣言する冥界の王と、
「では1日に○人が生まれる世とする」と対抗する現世の神との対立にも見えます。
この終わりなき戦いに決着がつくのだとすれば、それはまさに両者にとっての赦しであるのでしょう。

罪なき無垢なアマゾンを守りたいのに、恩義ある鷹山、戦い巧者でもある鷹山に勝つことができず、あの子達が殺されてしまう、守れなかったと瀕死の状況で泣きじゃくる悠にぐっと来ますし、七羽の幻影に向け、
「慣れねえけど、あいつらみんなおれの子どもみたいなものだからな。だったらおれがやらなきゃ」と気弱に笑って殺戮に向かう鷹山にもじんと来ます(書いてから気づきましたが駄洒落のつもりはなく偶然です)。

ラスト、鷹山のぶんまで原罪を負い、何処へか旅立つ悠の孤独と、アマゾンの仔たちと共同生活を営みつつその悠を待つ美月の慈愛、このシーンは長い物語の締めくくりに相応しい、美しいものでした。
人は楽園から追放されたことに拠って、他の生命を奪わずには生きられない運命を背負いました。しかし、長い歴史を経てついに食物連鎖の頂点に立ち、それゆえに「喰うか喰われるか」という視点を、いつの間にか失ってしまったのではないか、というのが本作のテーマです。これは食べて良い、これは食べてはならない、そのような選別自体、絶対強者としてのおごりではないのかと。
生きることそのものの罪深さと、だからこそ必要となる赦し。楽園を追放された悠と、かれを赦し、待つ美月の図式は、否が応でも心に染み入ります。

主に脚本への不満

ということで部分部分ではちゃんと感動していたのですが、最初に書いたようによくできた二次作品感、要は「これじゃない」感もずっとつきまとい、今ひとつテンションがあがりきらないままで終わってしまいました。
その大本は脚本にあるのではないかなあと思います(以下ただの不満)。

第一に緩急がない。シリアスは好きですが、駆除班の微笑ましい日常や千翼のイユへの一方的な、そしてロマンチック過ぎるくすぐったい恋心をこれでもかと描いておいて、その背後で皮肉な、あるいは残酷な現実が進行しているというのがアマゾンズだったと思うのに、映画はずっと重苦しい雰囲気のままでした。重厚といえば重厚ですが緩急がないといえば緩急がないのです。

第二に、第一とも関係しますが驚愕の事実、もしくは驚愕の展開、がない。いや「実はアマゾン牧場だったのです!」というのがそれだとするなら、あからさますぎ。予告編で謳い上げていなくともすぐわかることです。
悠がついに一線を超える、とか鷹山を破る、いうのがそれなら、衝撃はあっても驚きはない。予測の範囲内のことです。
「わたしを食べて子供たちを守って」
「誰かのために役に立ったと思いたい」
無駄な命ではなかったと思わせてほしい、そう相手に懇願され、泣きながら<共喰い>したことが超回復~鷹山への勝利につながるのですから、あの顛末は必然でもあり、感動的でもあったのですが、驚いたかと問われれば否だと。

第三に、驚愕がないので当たり前ですがそこに結びつく緻密な伏線への感嘆がない。要は
「あれが伏線だったのか!」という2度びっくりがない。こんなの靖子にゃんじゃない(そう思ってスタッフロール確認したら小林脚本ではありませんでした)。
緻密どころか、
・鷹山の修羅の道の象徴でもあった白濁した目がなぜか見えるようになってる
・最強アマゾンである鷹山仁/アルファをあんな簡単な設備で捉えておける
・囚われているのに腰にベルトをつけたままだし鍵もそのへんに置いておく
と鷹山解放のワンシーンだけでいくつも矛盾が見られます。
69が出荷されたときも、悠は変身すれば一度の跳躍で都心から埼玉か栃木あたりの山奥まで一瞬で移動できる能力があるのに、なぜかそれはせず、必死に走リ続けていた点、気になりました。悠が美月の前で
「自分も家族がいない」と言ってのけるのも驚きました(せめて「あ、ごめん」くらい言うのではと)。

橘の新プロジェクトもグロテスクなだけで、経済効果を考えると甚だ疑問です。
「アマゾン細胞には可能性がある」というセリフはどうも肥育スピードが速いと言いたかったようですが、子供のアマゾンがいましたので、見た目15~6歳に達するまでには2年くらいかかりそう……という気がどうしてもしてしまいます。
また哺乳類一般として、食肉は仔か雌に限るのが普通であるのに成長した男の子が半数以上いるのも畜産の話としては変で、69に自分の運命への疑問を抱かせるため(食べられることは命をつなぐ尊い行為と教えられてきたのに雄はまずいからと大量に食べ残す人間を目撃してしまう)という作劇上の都合のほうが強く印象に残りました。
そもそも殺害されたアマゾンの遺骸は心臓以外、黒いぶよぶよの物体となり、すぐに消えてしまうのですが、人間態で殺せば哺乳動物のような肉質が残るのでしょうか?

以上諸々、量産化されず、特殊な嗜好を持つ特別な富裕層だけが食べられるもの、みたいな描写なので、食した人間が不老不死になるとか、身体頑健になるとかそういう位置づけの食品かと思ったら
「我が国の食品自給率が」と、牛豚の代替品のように言うのでびっくりしました。描写と設定があってません。

さらに、施設の園長である御堂は
「プロジェクトは台無しだ!」とばかり自ら逃げたアマゾンの仔たちを殺戮しまくるのですがこれも狂気の極みとしか言いようがなく、牧羊犬は羊に噛みついたりはしません。
それより、人間体のままアルファ以上の力が出せるベルトを開発できたのなら、肉よりそのベルトを兵器として売ったほうが儲かるのではという気もします。悠が一線を越えたから鷹山も……とするためだけの人間設定なのでは。

そもそも鷹山と悠の物語はシーズン1で完結しているわけです。ある意味親しみも感謝も感じている相手でありながら、肝心な点で永遠にわかりあえない2人。わかりあってはいけないと思いこんでいる2人の、終わりなき相克。
シーズン2は外伝という味わいでした。アマゾン細胞について知識を深め、打開策を探ろうと、大学の生物学研究所を訪れる悠。アマゾンである我が子を宿し、独りその子をはぐくみ育て、そして命を落とした最愛の妻・七羽を思いつつ、己の子にさえ手を下そうとする鷹山。彼らがいなければ起こらなかったお話ではあるものの、物語の主人公はあくまでも、非業の運命を負った千翼/ネオだったわけで。
だからこそ、単なる続き、ではなく、1、2のテンションを上回る感動、もしくはスケール感を、映画には期待してしまったのですよね。
プラス、映画ならではの美しい、ダイナミックな映像を。
アクションは熱い、どころでなく演技も良かった。
殺された少女のうつろな目の映像が美しかった。
テーマ曲もかっこよかった。
ただ脚本が……これじゃなかった。これじゃなかったのです。
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