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驚きは、あったとも言えるしなかったとも言える! 舞台刀剣乱舞「山姥切国広 単独行 -日本刀史-」京都千穐楽

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タイトルに迷いました。いつもは、(センスあるとは思ってませんが少なくとも)すぱっと出てくるんです。
こういう時は書きたいことがまとまってない証拠。書いているうちにまとまってくるかな……

こういう言い方をしてもいいのかどうか、わたしは決して、荒牧慶彦さんのファンではなくて、だから荒牧さんが出られていれば何でも観たいとかではなく、またゲームで山姥切国広が特に好きなキャラクターというわけでもなく(というか特別に好きなキャラクターはいない)、あくまで「舞台刀剣乱舞」という一連の作品の激しい殺陣と、その物語性に強い魅力を感じていて、その主要登場人物である“まんばちゃん”とかれをとりまく刀関係がこの先どうなるのか……という興味だけでこの3年ほど公演を追いかけてきたわけです。

で、物語の流れの中で、今回の脚本には「特に驚きはなかった」。
いつかしなければならない話を今回持ってきたんだな、ここはこれしかないよな……と納得しながら観ました。

その一方で、それを演じきった荒牧さんには強い驚きを感じました。まばゆい光を受けてステージに立つその姿に、その表情に、思わず神性を感じるほどに。こんなの何回も観たら拝んでしまう。なるほど芸能とは神事なんだなあ、とこれまた納得せざるを得ませんでした。

ネタバレ無しで書けるのはこんなところかな。折りたたみ以降は、ネタバレ配慮なし。

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改めて「ゴドーを待ちながら」

本舞台では、観ながら「虚伝 燃ゆる本能寺」を思い出していた方がほとんどだろうと思います。本作中でも何度も何度も炎上します、本能寺。それを呆然と眺める、長谷部たち織田組も登場します。

あの作品は本能寺の変を主軸に展開しながら、一度として織田信長が登場しない(観客の想像を助けるシルエット、後ろ姿等はありますが「顔のある」信長はいない。映画「刀剣乱舞-黎明-」との大きな相違点)。
ただひたすら、周囲の人物が自分にとっての織田信長を語り、「お前にとってあの男は、織田信長とは何者か」と問う。明智光秀や森蘭丸がそうなのはまだわかりますが、織田組と呼ばれる刀達もまた、信長に取り憑かれてでもいるような言動です。
「なぜおれに問う。自分に問え」と答を拒むへし切長谷部。
「あなたにはあなたの織田信長、ぼくにはぼくの織田信長……」と言い、それぞれの人物の胸にそれぞれの織田信長像があると言い切る宗三左文字。
ゲーム刀剣乱舞の舞台化だと思っていたのに、特定の人物が直接描かれないまま世界の中心にあることに、実は違和感を感じていました。これではまるで「ゴドーを待ちながら」ではないかと。

「虚伝」はもちろん、主人公たる“まんばちゃん”の成長物語であり、同時にかれを導きつつ己の運命を引き受ける三日月宗近の苦難の物語であることも匂わせ、新しい男士、不動行光が一人前になるまでの物語であるとも、織田組の刀達がトラウマを克服しあるじの刀になっていく物語であるとも、色々に言えるのですが、そのように楽しみながらも、
「舞台刀剣乱舞にとって織田信長とは何者であるか」という疑問が刻み込まれていました。

そして、再びそれを思い出したのが、「舞台刀剣乱舞 无伝 夕紅の士 -大坂夏の陣-」。「悲伝」を経て三日月宗近の負う運命を十分観客に刻み込んだ上で語られるその前日譚。
その悲劇性に、真田十勇士の、豊臣家の、それぞれの悲運の物語が重ねられていくのですが、最後の最後になって、これまでの書作品のなかに散りばめられていた、“まんばちゃん”の、あるいは他の刀剣男士が三日月宗近を語り、問うセリフが一気に流され、「虚伝」の織田信長の鏡写しのような存在に、三日月宗近がなっていくのを感じました。
「舞台刀剣乱舞にとって三日月宗近とは何者であるのか」と。

「山姥切国広 単独行」はこのニ作品のアンサー作品。
知ろうとするな、思いを馳せよ」と。
人々がそれぞれに描く物語、そのすべての織田信長を(三日月宗近を、山姥切国広を)許容する」と。
なるほどね、それを語るにはこのタイミングしかないねと。
なるほどね、それはいつかは語らねばならなかったねと。
驚きがないとはそういう意味。

一見苦肉の策と見えた演出が後から効いてくる構成

シリアスな予告に反し、前半は謎にギャグ展開が続きます。
第一が新キャラである管狐の“ふくのすけ”。黒衣が小さなぬいぐるみを操る演出は冒頭、稚拙さを感じさせるくらい過剰で(後半はそんなことないのでわざとだと思います)、三条宗近の相槌を引き受ける時には人間態をとったのがただの全身タイツ+被り物。山姥切国広が
「……クセが、強いな」と歯に衣を着せてしまうほどの微妙さ。
そして唐突なEテレ風人形劇。人形と化した鶴丸国永や小烏丸の、妙に意味深な言葉。
一体何を見せられているのだろうと正直戸惑いがあり、すぐには世界観に浸れませんでした。一連の刀ステ作品とは明らかに違う、どちらかと言えば七周年感謝祭に近いシュールなギャグと不穏さ。

その最たるものが織田信長。
今作ではその世界の中心であった織田信長が、満を持して登場します。修行の旅の果に山姥切国広が、自身は縁もゆかりもなかった? 織田信長に
「おれはあんたを知りたい。それを通じて三日月宗近を知りたい」と会いに来るからです。
関係ないけど信長の前に跪く“まんばちゃん”の所作がもう美しい。こんなのされたら自分だったら狼狽えてしまうこと間違いなし。
しかもその腕前は目にしたばかり。普通なら仕官を受け入れるところですが、あっさり断る織田信長が流石です。
“まんばちゃん”、
「なぜだ!?」と逆に狼狽えていましたね。断られるとは夢にも思ってなかった。

で、織田信長と言えば何の作品でも普通は可能な範囲で一番の名優をあてる大役。でも、誰を選んでもその人はその俳優なりの織田信長を演じるので、
「自分のイメージと違う」と言い出す観客が必ず出てくる。それを本作では、アンサンブルの方が演じています。

演劇では、少ない俳優で多数の人物を登場させるため、さっきまで町人を演じていた俳優が次の場面では時間遡行軍、次の場面では侍と、場面転換に合わせ複数の役を演じ分けることがあります。殺陣一つとっても、今斬り倒され、悲鳴をあげながら倒れた者が、見えないところで立ち上がり、別の人物として何度も主人公に斬りかかり、その都度斬り倒されていたりする。違う人物だと思わせるよう、細かくアクションや武器を変えていたりもします。これを担当する俳優をアンサンブルと呼ぶようなのですが(すみません、わたしはあまり舞台詳しくないのでほんとうは別の定義があるかも)、その一方で、この方々は時に、一つの役を複数の俳優でシェアすることがあります。こちらは二役三役と担当する都合上、場面転換に着替え等が間に合わない時の苦肉の策とも言え、
「あれ、お前そんな顔だったか?」などと他の役の俳優にメタ発言させることで観客に(同じ人だと思って観てください)というメッセージを伝えたりする。いずれにしろ俳優としての“顔”“名”を、必要に応じて出したり出さなかったりする、そういう技術を習得している方々です。

なるほどなあ、特定の俳優を出したら必ず納得しない観客が出るから、わざと固定イメージを持たせないようにしたのかな、確かに奇天烈だけどその点はうまいな、と最初思っていました。アンサンブルの方々の中には慣れないせいか今ひとつ口跡のよくない方もいて感情をのせるあまりセリフが聞き取りにくい場面もあり、そこが残念に感じられたせいもあり、苦肉の作なんだろうなと。
信長ではなく三郎と呼ばせるのもまだ何者でもない尾張のうつけだということかと。

(とはいえ、舞台ではこれまでにも明智光秀、黒田官兵衛、伊達政宗、豊臣秀吉……と歴史上の人物を出してきたのだから、うちの信長はこうだ!  ってやってもいいのに、という気持ちもありましたが。)

2人目の信長が出た時もまだ、あれさっきの方の着替えが間に合わないからかな、と思ってました。
ところが3人め、4人め……と交代の回数が増え、その都度年齢や外見、ひげにマッチョにオネエや獣耳、女体といった特徴づけが顕著になっていき、更にはそれぞれが同時に登場することでさながら信長曼荼羅の様相を呈してくる。

ゲーム「刀剣乱舞」の様々なメディアミックスを成立させ、そしてプレイヤーである審神者各自の
「うちの山姥切はこうなの」という自由な妄想を許容する「とある本丸」設定にも通じる演出。いやしかし獣耳やオネエはやり過ぎでは……と、戸惑いました。

ですが信長自身は、
「すべてを許容する」と宣言します。その時初めて、あ、このための配役か、面白いなと思いました。

面白いと思いつつ、大丈夫なのかこれと思ったり。

歴史(history)には、そして刀剣乱舞世界で刀に力を与える物語(his story)にも、必ず諸説がある。
それはそうなのですが、時の政府は過去の歴史に関し、
「その中で自分たちはこの説を採る(正当な歴史と認定する)」という姿勢が明確です。そこからずれた世界は放棄する。
男士たちの逸話の曖昧さとはまったく違う態度です。

そして、この政府の姿勢を受け、舞台刀剣乱舞の本丸でも、放棄された世界の朧たちを許容せず斬っている。主君の遺児を諸説に逃がそうとする忠臣がいればこれを阻止している。信長の否定する、“諸説ある信長”を一つの信長に統合しようとする朧の黒田官兵衛たちと本質的には同じです。

「すべてを許容する」のは、本丸自身が円環を巡っているステ本丸にとって、今現在とりうる唯一の生き残りの道でもありますが、それは時の政府に逆らう危険思想ではないのかと。

一方で、信長とともに日本刀の歴史をめぐる山姥切国広の旅は「神曲」の地獄めぐりのようでもあり、またこの後に発生するであろう三日月自身の千年を巡る極修行を知らぬままなぞっているようでもあり。

神事を模したスサノオのヤマタノオロチ退治は神々しく、直後の廐戸皇子のキレキレの殺陣は(強すぎでは)と思い、観客が飽きてきそうなタイミングでメタ発言をはさみつつ、近世まで。
荒牧さんの、それぞれの登場人物の演じ分けはお見事で、わたしは“まんばちゃん”に関してはほぼ常に真顔、たまに困り顔というところが好きで、同じお顔が様々な人間らしい感情を表現しているのには違和感があったのですがそれはそれとして
・個々の歴史上の人物の再現シーン
・演技と素とが相半ばする山姥切国広のシーン
・素の山姥切国広となっているシーン
・三日月宗近を救わなければ、強くならなければという妄執に取り憑かれたシーン
とレイヤーの異なるそれぞれの演技を重ねていく、この劇中劇のクオリティの高さは間違いなく(みずらがあんなに美しい人はそうそういない気がします)。

いったいどういう気持ちでこの一人大河ダイジェストを観ていればいいのかと困惑していた、その果てに登場したのが――三日月宗近。

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大徳寺黄梅院の苔庭・織田信長上洛時、父・信秀公の追善菩提のため建立

いや流れとしては当然なのです、“まんばちゃん”は信長を知ることを通じ三日月宗近を知りたいと言った、信長は知ろうとするな、お前はただ自分が納得したいだけだ、そうではなく相手の心に思いを馳せよと言い、“まんばちゃん”に歴史上の人物を演じさせた。ステージ生着替えまでさせて。
となれば、最も知りたい三日月宗近に思いを馳せるため、最終的にかれを演じるのは当然の流れ。

またこれは、観劇前から予測していたことでもありました。タイッツーにもフィルタ付で書いていたのですが、ここまで公式がネタバレ禁止とうるさく言うからには、荒牧さんが三日月になる展開しか考えられないと思っていたのです。
ポスターのデザインは「虚伝」の三日月宗近の鏡像であり、直近の七周年感謝祭では
・三日月と山姥切が入れ替わる
・山姥切が三日月に「お前を連れ戻す」と宣言する
というエピソードがこれを暗示していました。
ただ、その時の入れ替わりがあまりにもお見事すぎて、山姥切が三日月宗近になりかわる自己犠牲的展開をわたしは予想してしまっていたわけですが。そこは外れてよかったと思っています。

三日月宗近を演じる荒牧さんの観察力と再現力にはもう七周年の時から感銘を受けていたわけですが、まさか「悲伝」千穐楽のあの死闘まで完全にコピーされるとは思わず。
長く激しい殺陣の中でわずかな手の角度、顎のふり、声色と台詞回しの緩急、あらゆる点に気が配られ、鈴木さんと違う点は生来の体格のみという恐ろしさ。そこに驚きました。

観劇後、ようやくパンフレットを開いてみたわけですが、
「案外似ていたね」
「衣装さんやメイクさんのおかげなんです」
じゃない。じゃないです。それでは謙遜が過ぎる。

荒牧さんの演技力という意味でも、また、山姥切国広が三日月宗近に思いを馳せた時、再現されるシーンの解像度の高さという意味でも。この山姥切はきっと、繰り返し繰り返し、何度も何度もあの別れと約束を思い返していたのだろうと思えばいじらしい。
事前に公表された水辺に横たわる山姥切国広の美青年ぶりも甚だしいあのビジュアル、あれは「悲伝」で2振りがたどり着いたあの世界の果ての汀を示していたんだなと(なのにそのシーンの山姥切国広を演じるのは荒牧さんではないという二重三重のだましが入ったビジュアル)。

前半の微妙なギャグの盛り合わせからこのシリアス路線に、いきなり切り替わるのではなく、“まんばちゃん”と“黒まんばちゃん”が分離した辺りから、少しずつシリアスの色が強くなってくる展開もうまい。ほんとうに。

三日月を演じたことで三日月を、あるじを、本丸の仲間を信じる心を取り戻し、憑き物が落ちたようになる山姥切国広が、しかし力では朧の黒田官兵衛に敵わず(「无伝」のへし切長谷部のようにぼろぼろにされる展開を正直期待してしまいましたがあそこまでやれとは言ってません……黒田官兵衛はへし切長谷部だけ優遇したのかな)、一度折れ、極として復活してもなお囚われた織田信長を連れて逃げるのが関の山で、それでも自信満々に円環と結の目を巡る物語へ自ら飛び込んでいく。
背に垂れた山吹の鉢巻を、風に棚引かせる姿の凛々しさ美しさ。扇風機万歳。

この展開はそこだけ観ると納得できないのです。規定の修行は終えていた山姥切国広ですから、既に極相当の力はあったはずで、そこに至るのに折れる必要などなかった。ふくのすけの
「とっておきの機能つき」という伏線を回収するためだけに折れたのではという気がします。それでも、一人大河ドラマの繰り返しの中で、だんだんシリアス路線を受け入れる下地が自分のなかにできてしまっていたなとも感じるのです。

黒まんばちゃんが!

本作予告に登場した黒まんばちゃん。その名の通りすべての装束が黒となり、顔すらも黒い布に覆われて見ることのできない、“まんばちゃん”の影。「悲伝」千穐楽以外の、無数の“まんばちゃん”たちが繰り返し辿った対三日月敗北の歴史。そこから生まれた後悔と疑念、やみくもに強く有りたいと願う焦り。そうしたものが結実した存在が黒まんばちゃん。かれらは三日月宗近に、“煤けた太陽”というあだ名で呼ばれた記憶はあった。でも、「悲伝」の世界の果てで、改めて“煤けた太陽”として強くなり三日月を救うという約束は、できていなかった。思い切り敗北してしまいますから。
三日月宗近に囚われ、苦悩にのたうちまわるかれが“まんばちゃん”以上に愛おしく感じられ、悟りを開いた山姥切国広が己もまた信長同様無限の広がりを持つことに気づきつつ同様にすべてを受容し、
「お前はおれだ、お前に太陽の物語を与えよう」と黒まんばちゃんを抱き寄せる展開にどきどきしました。
抱き寄せられて戸惑いもがく黒まんばちゃんを見ながら、「義伝」で鶴丸国永が黒甲冑を受け入れた浄化メソッドを思い出してよかったねとつい泣きそうになり。

しかし感傷はそこまで。かれは朧たちによってさらわれ、黒田官兵衛の力で時間遡行軍の打刀(よく“オクレ”とか呼ばれてる)の姿となり、物語集めに利用されることとなります。
「お前なら三日月宗近を救うことができるかもしれない」
「文久土佐にでも派遣してみよう」
 そんな官兵衛の言葉に、なるほどここから「維伝」につながるんだなあと納得し、そして突然
「“オクレ”は『綺伝』で山姥切長義に斬られちゃう!」と思い出してまた泣きそうに。あの時はその長義の苛烈さに、却って国広への愛情を感じていたのですが(あれはおれの写しだ、勝手に偽物くんを騙るのは許さん的な)。
黒まんばちゃんにとって、斬られることは救いであるかもしれない。でも、本作で愛おしさを感じてしまった後で思い返すとつらい。
「偽物くんの偽物くん」などでは決してなく、かれもまた、ダーク成分が多いにせよ山姥切国広であることに違いはないと本作で思ってしまったので。
七周年の時も、黒まんばちゃんを内包していたのであろうあの挙動のおかしい山姥切国広を見つめる山姥切長義の、険しい目つきが気になっていました。ああ彼らの今後が気になって仕方ないのです……。

そして驚きと言えば今回一番驚いたのが、黒田官兵衛が言う、
あの審神者なら文久土佐に始まりの刀である陸奥守吉行を派遣するだろう」というセリフ。
ずっとずっと、ステ本丸の初期刀は山姥切国広だと思いこんでいました。なんでだか知らないけど思い込んでいました。いやわたしだけだとは思えない。
もちろん、七周年で鶴丸国永が
「うちには始まりの刀が揃ってる」と言ったように、本丸の初期刀という意味ではなくあの5振りの総称としても使われる言葉ですが>始まりの刀
どっちなんでしょうか。
単純に考えると後者なんですけど、ほら虚伝で明智光秀の命日ずらしてきたりするステ本丸なので。

螺旋を描く時の流れ

前々から、ステ本丸の物語がある部分から次の部分へ、行きつ戻りつするところは
「本丸の時間は螺旋を描いている」ことを暗示しているのではと思っていました。単純な円環ではなく。上演順こそが時系列順であると。

前に書いたことの繰り返しになりますが、「天伝」は、黒田官兵衛の持つ本丸年表からすれば、「悲伝」より前の出来事。しかし、「悲伝」の山姥切国広は、鵺と呼ばれるを見ても「天伝」で見た刀剣男士のなりそこないを思い出さない。あんなにも似ているのに。

「慈伝」の山姥切国広も、「天伝」で太閤左文字に告げられた不吉な言葉を思い出しもせずに旅に出る。
すなわち上演された「天伝」とは、「悲伝」「慈伝」を経験した後、その記憶をリセットされ最初からやりなおした山姥切たちによる、もう何回目かわからないけど、その繰り返しの中で彌助たちの干渉を受け変化した最新バージョンの「天伝」なのだろうなと。

続く「无伝」も、「天伝」の変化を受けて真田十勇士が発生した大阪夏の陣を、また何度か繰り返した末の一例なのだと、黒田官兵衛のセリフで語られています。

そんな繰り返される時の流れを、すべて記憶している三日月宗近。
リセットを受けつつも何かおかしいと感づいている鶴丸国永(と、たぶん小烏丸、あと審神者)。
そして、三日月の喪失に耐えかね、時の円環に自覚的になり、さらにはたぶん、今般初めて円環をめぐる旅に飛び込んだ山姥切国広。

これによって以降の物語がどのように変わっていくのか……もしかしたら「綺伝」で、長義が黒まんばちゃんを斬らず、受容する世界もあるのかなと思ったり。
たぶん、甲府や江戸を経て、それから再び「悲伝」改め「陽伝」のタイミングで、今度こそ太陽の物語が語られるのかな。その時は鬼丸も登場するのかな……と今から妄想しています。
そうなったら今度こそ、前回と違う、まんばちゃんが出陣する聚楽第とかもあるかな、とか。

官兵衛が言う通り、ここの審神者は織田組を本能寺の変に派遣し、文久土佐には陸奥守を送り出すスパルタ審神者。慶長熊本には歌仙。今度の甲府には、加州。なのに「慈伝」で見る限り、聚楽第には山姥切国広を出していません……「悲伝」の衝撃で山姥切が弱々のぽんこつになっていたからではないかと思っています。
観たいなあ、悟った上に極めているまんばちゃんと山姥切長義とか。
まあ、次の甲府、チケットとれるかがまた問題なわけですが。

カーテンコールの後、
「残る福岡公演も最後まで、全員揃った状態で演じきりたい」と宣言し、その意気込みを見せるように力強く右拳を突き上げながら踵を返した荒牧さんの背が、
「おれもまた円環をめぐる旅に出る」と宣言した山姥切にだぶり、あまりにもヒロイックで息が止まりそうでした。
スタンディングオベーションとなった二度目のカーテンコールでも同じく。三度目でようやく、いつものばいばーいと大きく手をふる荒牧さん式の退場になって、やっと安心した次第です。
そして、さようなら
山姥切も素敵でしたが、わたしはやっぱり山姥切の布もかなり愛していたのだなあと思い知らされました。
ちなみにエンディングはインストゥルメンタルに合わせ、山姥切国広と、あとは織田信長全員が舞い踊る展開。荒牧さん以外全員が「織田信長」と書かれた傘を持っていてインパクトありました。
いちめんのおだのぶなが。

良席と織田信長の墓

以下余談ながら、今までのステ体験では初めてとも言える良席です。いつも良席良席と言っていますが前方ではあっても端の端であったり、2階のスナイパー席であったり、真正面でも3階最後列だったりしてきたわけです。ところが今回は正真正銘の良席。
発券して目を疑い、劇場の座席図で確認してまた目を疑いました。
前方、なおかつほぼ中央。ほとんどの時間、目の前真正面に荒牧さんがいて、しかももしわたしの手に竹刀があれば荒牧さんは常にわたしの間合いの中にありました。いや攻撃を加える気はもちろんありませんが、届く距離。
この距離で拝んだせいか、神々しい姿があまりに眩くて目が潰れそうでした(比喩)。よく二次で、本歌や三日月を正視できない山姥切って出てきますけど今回はこちらがあんな感じになっていました。

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大徳寺総見院門前 羽柴秀吉が主君織田信長の塔所として建立

今回の観劇は
京都に行くついでに観光でもしようかな→
いやホテルとれない→
日帰りだなあ、ならゆっくり行くか
という感じのノープランでいたのですが、当日思ったより早く起きたので午前中、1~2時間くらいなら観光できそうだなと思い、そのまま出発したわけです。京都は見るところいっぱいありますから、今まで行ったことのないお寺とかないかなと。
で、なんとなく薄緑の大覚寺が頭に浮かび、なのにタクシーの運転手さんには行き先を「大徳寺」と言っていました。

すぐ間違いには気づきましたがまあいいか、大徳寺も行ったことないしと紫野へ。
着いてみたらめずらしく、普段公開されていない三院が特別公開中であるとわかりました。で、共通の拝観券を購入したのですが、そのなかに豊臣秀吉が織田信長のため創建した総見院が入っていたのです(政府権限による顕現みたいですね)。
織田一族の墓所とか信長の使った輿とかに混じり、信長リスペクトの? 茶筅塚とか色々拝観できました。
紅葉はまだでしたがとても素晴らしいお寺で、でもとにかく広いので、知識があれば1~2時間で見るの無理だと初めから諦めていただろうところです。ノープランで何も知らなかったからこそ信長のお墓に詣ることもできたのだろうなあと。
これから見るお芝居が、信長の話(しかもノブナガバース!)であるとは思わずに。

山姥切国広演じる明智光秀が作中でうろたえていた通り、死体が発見されていないので、純粋に思いだけ、物語だけのお墓なのですが、それだけに今回たまたま
「大徳寺へ」と行き先を言い間違えたことに、なんだかご縁を感じました。
明智光秀がうろたえた理由は、死体が発見されなければ自分が討ち取った、勝利したという証にならず、天下を取る正当性を失うから。逆にいえば信長の勝ち逃げ。
以下メタな話ですが、東京公演の頃はネタバレ避けていたので見逃していたこれ。
いや無理もない。無理もないですよねこれ。
わたしあれほどの良席なのになおもオペラグラス持って行って時々荒牧さんのお顔をどアップで拝見していたのですが頬の落ち方がすごかったです。ぜんぶ終わったらいっぱい食べてごろごろだらだらしていただきたいと願っています。最後までご武運をお祈り申し上げます。
同日追記。これ知らなかったけどすごい。すごいな荒牧さん。これは惚れる。
11/12追記。今まで、このブログで記事を書くとTwitterに「更新しました」と自動で投稿されていたのですが、たぶんXになった頃から連携が切れ、自分で「更新しました」とポストしないといけなくなりました。ので、ポストは大千穐楽である今日まで待っていようと思っていた次第。
荒牧さんはどんなコメントを残されるのでしょうか。
そして次回作の予告はいったい。

ちなみに京都千穐楽では、
「奇しくも銀河劇場、京都劇場は『悲伝』を上演した劇場であり、まさにこの、同じステージで演じたことを思い出しながら演じさせていただきました」と仰っていましたね。我々も、たぶんわたしだけでなくお仲間がいると思ってこの主語ですが、帰ってすぐ「悲伝」のディスクで復習しました。ああ繰り返される円環の果て……

さらに追記。劇場で、
・傾斜のある丸い舞台が
・回転し続ける中で
・大勢を相手取る殺陣
のシンを演じる荒牧さんに、今回はまたすごいことをしているなとアクション面でも驚いたのですが、あの丸い舞台はバレエ「ボレロ」のイメージなのだそうです。そう言われれば背景もなくただ人体だけで世界が構成されている……!


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